2/18は拾得の45周年パーティの日だった。翌日は大抵拾得の誕生日の余韻の中で通り過ぎる一日になるのだけど、僕の誕生日でもあります。

 ポジション気にせずに損得も何も考えずにいうと、拾得のパーティにはいつも行きたくない。そもそも拾得には行きたくない。ある時期から本当にいやになっている。
それでも行くのは、親孝行しなきゃというバランス感覚を働かせてしまっているのだ。親孝行はしたい。拾得に行きたくないのは親が嫌いなのではない。
 親が喜ぶだろうとか、お世話になった人が喜んでくれるだろうという思いがあって、こんな自分でも育ってきたのはお客さんや演奏者とか従業員の方々のおかげだから全く知らん顔はできないだろう自分にできることがあれば、という思いがあるから顔くらい出しておこう、となっている。こんなの当たり前の動機だろう。感謝の思いは当然めちゃくちゃ持っている。

ところが大抵そういう思いは思い上がりであり、カウンターぎみにいやなことを言われて目を覚ますことになる。
「みんなが僕に気を使う」「結局ボンボンなんだ」などとわざわざ言われていい気はしない。このセリフは誇張ではなく一字一句正しく僕に吐かれたものであり、楽しい席であるはずの場所で「なんの悪意もなく」僕に向けられた正確な言葉だ。きっとそうなんだろう。そう思う人がいるのだからそうなのだろう。

僕がそれを聞いて気分を害することすらもおかしいと思うのだろう。でも僕はもちろんどう考えても気分が悪かった。

そもそも拾得でボンボンなんてありえないことぐらいちょっと出入りしている人なら分かりそうなものだからやっぱりあの言葉は悪意がちょっと入っているな、とは思う。まぁ他人の悪意に興味を持つのは時間の無駄だからやめておこう。

気分が悪いことを押し隠せばいいのだろうとも思ったけどいや待て、僕の人生だ。気分が悪いのなら直接それを伝えるか僕がその場を去れば良い。

 僕は不快であることを誰がどう見てもわかるぐらいの態度と言葉で反論した。誰がどう見ても怒っている姿になってしまった。結局のところ「みんなが僕に気を使う」ポジションに自ら突入していったのだ。

ああこれでまたみんなに気を使われることになった。

結局のところ、どうすれば良かったのか。
曖昧に笑ってすごすのがいいのか、そもそも行かなきゃよかったのか。

もうずっとこの繰り返し。
楽しい気分になりたくてもいやな思いがカウンターでやってくるから、知り合いが出入りするようなライブハウス関連には積極的に関わりたくないと思うようになった。この文だって”友達”と書くつもりが友達と書くのも思い上がりなんじゃないかと思うようになって、結局知り合いと書くことにした。ああほんと面倒くさい。どうすりゃいいのかわからない。
自意識過剰になっているんだろwみたいな感じで軽く言ってくれる人が大半なのだけど、実際その考えすぎた世界をトレースしたような罵詈雑言は確かにあるし、それは少数であっても自分には大半の楽しい気分を吹き飛ばすだけの効果がある。この場で楽しもうとすること自体が間違えているように思うようになってきた。

そういう村の中でポジションばかり気にしていたものだから、初音ミクの存在を知った時はすごく嬉しかった。ああこれは僕がやる世界だ、と思った。そこで僕は他人に悪口を言ってを傷つけたりしたこともあったけれど、自分にちゃんと返ってきて反省もしたし謝ったしコミュニケーションも取れた。まだ完済しているとは言えないけれどそれも含めて自己を全うしようと思える。

記事になったりメディアに乗せたりするときは、親が喜ぶかな?という思いがやっぱりちょっとあるもんだから拾得と絡めた記事になりそうになっても否定することなく使ってもらっているけど、ネットの上は今のところそういうしがらみとか、存在するだけで相手に気をつかわせてしまうような見えないモンスターもいない。「ネットの上のお友達ばっかり」などとバカにされたりもするけどポジションとバランスばかり気にしなきゃならない場所よりはずっと健全でフラットで、僕には楽しい。

僕が楽しくない気分になる場所には行きたくない
知り合いにも気を使わせなくない

僕は楽しい人生を送りたい

めちゃくちゃ当たり前のことだけど、迷うことなくちゃんと全うしたい
気を使うばかりの相手ならお互いメリットがないから疎遠になっていくのも悪くない

昨日は僕の誕生日だったけど、最悪な気分の余韻のまま誰とも言葉を交わすことなく一日を過ごした

こんな最悪な誕生日を前向きに表現するとしたらこう言えばいいかな

楽しく生きていきます。これから。